あなたの祈りが休息の時間となっていないのなら、あなたの祈りはどこか間違っているのです。
祈りとは、あなたが頑張って神に奉仕する時間ではありません。
神があなたをもてなされる時間なのです。
神があなたに香油を注ぎ、食卓を準備し、杯をあふれさせ
美味しい料理を給仕してくださる至福の時なのです。
あなたは自分の努力や犠牲に頼って神を動かし、その祝福を勝ち取ろうと苦労していませんか。
そのような異教的な考え方はあなたを疲れさせるだけです。
休息への招き
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイによる福音書11:28 新共同訳
イエスは疲れ果てている人、重荷を背負わされて今にも倒れそうになっている人に呼びかけています。
わたしのもとに来なさい。そうすれば、わたしがあなたを休ませてあげよう。
礼拝とは神のもとに来て、その安息にあずかる憩いの場です。
祈りとは、あなたがその重荷を下ろし、彼のもとに十分な休息をとる時間です。
あなたは、祈りを自分の重荷をおろし、主の恵みを喜び楽しむ時間として用いることができます。
神との関係を歪めてしまう力
神への礼拝や祈りというものをその本来の目的から歪めてしまう力が働いています。
祈りや礼拝というものが設けられたその目的
それは人間の安息と休息、魂の回復のためでした。
しかし、喜びと憩いに満ちた時間であるはずの祈りや礼拝が
重荷を背負う時間、疲労困ぱいする時間へと歪められてしまうとしたら、それは恐ろしいことです。
今でこそ、祈りの時間がとても楽しくなり、心が軽く朗らかになっていく時となっています。
しかし、長い間私にとって祈りはノルマであり、重荷でありました。
心身共に疲れ果てる労働となっていたのです。
なぜ、そうなってしまったのでしょうか。
神との関係を歪めてしまうもの、それは律法主義という「ものの考え方」です。
特にその傾向がファリサイ派、律法学者と言ったグループの信仰生活において顕著に表れておりました。
人々の信仰生活を歪めてしまうこの律法主義とはいったいどのようなものなのでしょうか。
律法主義の本質
律法主義とは自分の努力や犠牲を功績として誇り
これらの行いに頼って神を動かし、その祝福を勝ち取ろうとする考え方です。
律法主義は私たちの信仰生活をどのように歪めていくのでしょうか。
律法主義の主な特徴を見ていきましょう。
律法主義とは神の栄光ではなく、自分の栄光(称賛)を追い求めます。彼らは人の賞賛を求めています。
その背後には人間の高慢(プライド)があります。原罪の本質は神のようになろうとする高ぶりです。
人間は自分がいかに信仰深いかを自慢したいのです。自分がどれほど犠牲を払っているか、どれほど熱心に祈っているのかを人前で吹聴するのです。イエスはそれを人前でラッパを吹いていると言います。
他人に自慢するために、彼らは自分にノルマを課して、その信仰生活を規則で縛ります。
自分の行い、犠牲を功績として数え上げ、それらに頼って神を動かし、祝福を得ようとします。
本来の祈りや礼拝はその正反対の特徴を持っています。
祈りや礼拝を通じて、神の栄光を追求します。
神を喜ぶことがその力の源泉となります。
自分の犠牲ではなく、神が用意されたキリストの犠牲(十字架)を誇り、これに依存して神に近づきます。
祈りや礼拝を、ノルマ(課題)を果たす時間ではなく、「重荷をおろして休息する時間」であると考えます。
あなたの信仰生活が規則に縛られて重荷となっていないでしょうか。
あなたの祈りの時間、礼拝の時間が重荷を背負い、ノルマを果たす時間になっていないでしょうか。
お百度参りや炭火の上を歩いたり、滝に打たれたりといったあなたの犠牲、修行、努力によって、神の救済を勝ち取ることはできません。
それは異教的な考え方です。
神の救済を受け取るために、あなたは神が定めた方法に従わなければならないのです。
神があなたの救済のために一方的に犠牲を払ってくださいました。
その成果をあなたは無償で受け取ることができます。
神の救済を受け取る代償として、それと引き換えにあなたが善行を積み、犠牲を払う必要はありません。
これが聖書の考え方であり、GOOD NEWS(福音)です。
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。ローマ人への手紙3:24 新共同訳