神はあなたに休息を与えたいと願っておられます。
イエスが与える安息とは素晴らしいものです。
今日は安息を受け取るための二つのステップについて解説します。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11:28-30 新共同訳
重荷をゆだねる
安息を得るための第一ステップは何でしょうか。
イエスのもとに行って重荷をおろすということです。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。28節
あなたが自分の重荷をイエスのもとにおろす時、
神の力が働いて、あなたは不思議な安息を体験します。
「わたしこそが」あなたにまことの安息を与えることができるのだ。
安息を与えるその主体がイエスであることが強調されています。
重荷とは何でしょうか。
あなたが今抱えている問題、課題のすべてを指しています。
「どんな問題でもわたしのもとに持って来なさい」と言えるのは神だけです。
ゆだねるという行為は無責任にその課題を放り出すのとは違います。
責任をもって、その問題を神の御手に託すということです。
そこには相手に対する信頼が必要になってきます。
自分が今抱えている問題がどのようなものかを具体的に神に対して申し上げてから
あなたは「どうぞよろしくお願いいたします」と言って、自分の問題を神の手にゆだねることができるのです。
普通は「そんな問題をわたしの所に持ってくるな」と断られてしまいます。
しかし、神はここで「あなたの問題をわたしのもとに持って来なさい。
あなたの依頼を引き受けてあげよう」と約束されました。
これはすばらしいこと、ありがたいことではないでしょうか。
ですから、何らかの問題を神に依頼する時には必ず感謝をこめるようにしましょう。
イエスのくびきを共にする
安息を得るための第二ステップは自分の重荷をおろした代わりに、イエスのくびきを共にするということです。
くびきとは、畑を耕す時に、二頭の牛を木の棒などでつなぐ道具です。
くびきでつながれたら、共に同じ道を進まねばなりません。
一頭の牛が右に行こうとする時に、もう一頭の牛が左に行くことはできないのです。
くびきは逆らう者にとっては自分を束縛する窮屈なものです。
しかし、イエスに従って共に歩もうとする者には心地よい、快適なものとなります。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
29-30節
キリストのくびきを負い、キリストの謙遜を学ぶとはどういう意味でしょうか。
「柔和」と言う語はヘブライ的背景を持つ言葉です。
それは「貧しい者、圧迫された者、迫害された者、砕かれた者」であり、「辛い経験を通して神への反抗をやめ、神に従うようになった者」という意味があります。
「イエスの謙遜を学ぶ」とはどういう意味でしょうか。
神の辛いお取り扱いを通過していく中で、頑固な石の心が砕かれ
神に対して従順な者になっていくということです。
神と共に歩む人生というものは、二人三脚のようにくびきにつながれます。
しかし、主がその重荷を共に担ってくださいます。
その歩みは神の力によって運ばれるようになります。
そのため、その荷は軽く、生活は心地よいものとなっていきます。
イエスの与える「安息」とは単なる心理的平安ではなく
神の力によって守られ、運ばれていく心地よい状態を意味します。