律法主義のわな

パウロ先生がその手紙において、強く警告したもの、それは律法主義のわなです。

ガラテヤ書などを中心に説かれる律法主義のわなとはいったいどのようなものでしょうか。

目次

ともえ投げ

私は律法主義のわなを柔道の「ともえ投げ」と呼んでいます。

敵はともえ投げを使って多くの信仰者を投げ飛ばしています。

ともえ投げとは、「相手が前に出ようとする力」を使って、相手を投げ飛ばす技です。

きよくなりたい、神の意志を実践したいという思い、熱心な努力と犠牲、前に出ようとするその相手の推進力を利用して相手を倒すのです。

信仰者の多くは失敗の原因を自分の努力や修行が足りないからであると考えます。

自分にノルマを課し、もっと祈らねば、もっと聖書を読まねば、時には断食せねばと、自分が決めた規則、律法によって自分を追い込んでいきます。

ますます、自分の力、努力、犠牲に頼って神の恵みを得ようとします。

聖霊の力によって始まった信仰生活を肉と呼ばれる自分の努力に頼って完成しようとするのです。

これを律法主義と言います。

するとどうなるのでしょうか。

彼の状況は悪化するのです。

真面目な人ほど、この律法主義のわなに陥る傾向があります。

3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
ガラテヤ人への手紙3:2-3 新共同訳

律法主義の考え方

律法主義とは何でしょうか。

普通、何かの祝福、良きものを手に入れるためには、その代価を払わねばならないと考えます。

神から祝福を受けたい、助けを受けたい、天国に入りたいと思う

そのために、代償として何らかの善行、功徳、犠牲を差し出さねばならないという考え方

これを律法主義と言います。

多くの人が神の祝福を勝ち取るために、また、天国へ入るために、善行を積み、苦行をします。

ユダヤ人も同じように考えました。

彼らは「施し、祈り、断食」などの行為を三大善行として特に重んじました。

自らの善行、徳を神の御前に差し出して、それらによって神から義と認められ、祝福を得ようとしました。

キリストと出会う前のパウロ先生は、ユダヤ教の三大善行である施し、祈り、断食に励み

安息日や食事規定などの戒律を守ることによって神の祝福、救いを得ようと必死で努力していました。

その神への熱心は当時律法の規定をないがしろにしていると思われたキリスト教会への憎悪と迫害へと発展していきました。

福音の考え方

聖書の教えは律法主義の考え方とは正反対です。

キリストが代わりに犠牲を払い、善行を全うしてくれたので、彼を信じる者は無償で、神の祝福と救いを受け取ることができると聖書は教えています。

これはあまりにもありがたい申し出なので、福音すなわち「良い知らせ」と呼ばれました。

神の祝福と救いとは神の一方的恵みとして、無償、無代価で信じる者に与えられていきます。

この福音の考え方は、私たちの常識や理性ではなかなか理解しがたく、受け入れがたいものです。

しかし、神から祝福と救いを受け取ろうとするのであれば

神の定めた方法、法則に従わなければなりません。

それは恵みにより、信仰によって救われていくという法則です。

「キリストに関する神の約束、すなわち福音を信じる者を、わたしは祝福し救う」と神が定めたのです。

私たちは神が定めたルールに従って、あらゆる祝福と恵みを受け取ることができます。

反対に神の定めた信仰の法則に従わずに、いくら自分のやり方を押し通して努力しても

成果が得られないばかりか、かえってマイナスになってしまうことになります。

3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマ人への手紙3:23-24 新共同訳

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