奇跡を起こす信仰

明確な約束が聖書にある場合、私たちはその約束の言葉に立って「信仰の祈り」をすることができます。

「信仰の祈り」とは、その祈りがすでにかなえられていると信じて祈ることです。

たとえば、田舎のおふくろさんが、「さくらんぼを送ったよ」と電話をかけてきたら、あなたは「ありがとう」と言うでしょう。

実際にそのさくらんぼが届いていなくても、あなたは相手の言葉を信じて感謝をします。

まさか相手がうそを言っているとは思わないでしょう。

そのように、相手を信じるとは、相手の言葉を信じることです。

相手の言葉を信じて信仰の祈りをしたならば、後は実際にその答えが届くまで感謝していればよいのです。

信仰の祈りについて教えている聖書箇所を見てみましょう。

目次

神を信じなさい

【新共同訳】
マルコによる福音書
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

「神を信じなさい」と22節で命じられています。

神を信じるとは、神の言葉を信じることです。

23節の「自分の言うとおりになると信じるならば」は直訳すると「自分の言うことが起こっていると信じるならば」となります。

「将来、いつか起こる」と信じるのではなく、「今現在、起こっている、起こりつつある」と信じるのです。

人はいつか起こるであろうという希望によってではなく、「今起こっている」とする信仰によって救われるのです。

彼は見ていないものを信仰によって確信しています。

聖書の言う信仰とは、明確な根拠を必要とします。神が約束されていない物事を勝手に信じることはできません。

神への信仰は神の言葉を聞くところから生まれます。

そこに相手への信頼が生まれます。相手が真実な人であり、信用できる人であるという信仰が生まれます。

その確信を持ち続けながら、あなたが神の約束に立って祈れば、その祈りは必ず答えられていきます。

すでに答えられたと発言する

信仰の法則の第一ステップはその信仰を「言葉に出して言う」ということです。

あなたが神を信じ、神の言葉に立って祈ったのなら、その祈りが答えられたと言い続けてください。

約束してくれた物事について感謝の祈りを始めてください。

祈り求めたものはすでに起こり始めているのです。

あなたが 『立ち上がって、海に飛び込め』と言った瞬間から、神の力が働き始めているのです。

おふくろが約束したさくらんぼは、すでに発送されているのです。

まだ、届いていなくても、実際に見ていなくても、相手の言った言葉を信じてください。

約束されたさくらんぼが必ず届くことを少しも疑ってはいけません。

この聖書箇所では「信じる」という語は1回ですが、「言う」という語は3回出てきます。

心で信じることよりも、その信仰を言葉に出して「言う」「命じる」ことをイエスは三倍強調しているのです。

信じていることを実際に言葉に出して言うということはそれほど重要であり、難しいことなのです。

あなたがその口で言ったこと、それが、あなたが実際に信じている内容です。

あなたが心のうちで信じていることを口に出して告白する時

その信仰はおおやけに言い表されたものとなり

神の御前に、公的なものと承認されます。

あなたが公的に表現し、神に承認された信仰の告白通りに、あなたの言った通りになっていきます。

祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 24節

疑う人の特徴

疑うという語は「その心が分裂して議論する」という意味があります。疑う部分と信じる部分に分かれてしまう。

この語は「ためらう、ちゅうちょする」という意味もあります。

二つに分かれた心は二つの発言を産みだします。

ある時には、「祈りが答えられた」と言い、ある時には「大丈夫だろうか、心配だ」と言います。

思い煩い、心配に満ちた祈りは働きません。その心に疑いがあるからです。

「大丈夫だろうか、心配だ」と言う不信仰や疑いの発言があなたの祈りの効力を破壊します。

私は、母が「さくらんぼを送ったよ」と言ってくれた時、疑ったことはありません。

その言葉には愛情が満ちておりました。

相手の言葉を疑うということは、相手をうそつき、詐欺師と見なすことです。

それは、大変失礼なことです。

そのような人間が神から何かをいただけるもののように、考えるべきではありません。

山が移る

「山が移る」という表現は常識的にはありえない、不可能なことが起こるという意味です。

「山が立ち上がって海に飛び込むわけがないでしょう」とあなたは笑うかもしれません。

しかし、私たちが自分の力で山を移すのではありません。神の力が働いて山を移すのです。

人間の常識によって、神の力を測り、制限しないでください。

人間の常識や理性で考えて「そんなことはありえない」と思っても、神の全能の力は奇跡を起こすことができます。

信仰とは自分の力ではなく、神の力を働かせることです。

今までの経験、自分の見ている現実から考えてありえないと思っても

神の力はあなたを取り巻く世界を造り変えることができます。

聖書に記された神のわざを思い巡らすことによって

あなたは、奇跡を信じる信仰を養い育てることができます。

あなたの目の前に立ちはだかる大山は何でしょうか。

どうしてもやめられない悪習慣や罪でしょうか。
医者が治すのは不可能だと宣告する病気 でしょうか。
難しい親子関係でしょうか。
職場の人間関係でしょうか。
仕事のことでしょうか。

自分の力ではどうにもならない問題を解決するために、あなたは信仰の祈りを使って神の力を引き出すことができるのです。

神の約束を繰り返し黙想し、告白し続けてください。

神の言葉を百回、二百回と繰り返して、聞き続け、味わっていくうちに、あなたの心の奥底に悟りと確信がやってきます。

あなたの信仰が少しずつ成長するに従って、目の前の山を動かすことができるようになっていくでしょう。

はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。23節

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次