失望落胆している方にピッタリの聖書箇所を取り上げます。
あなたを再び、立ち上がらせるために、神はあなたの力を交換します。
古い力、疲れ果てて倒れてしまう人間的力から、どんなに走っても疲れない神の力へと交換するのです。
彼らの苦しみの叫びに対して、神はどのような言葉を語りかけているのでしょうか。
彼らの未来のために、神はどんな舞台を用意されているのでしょうか。
そのメッセージは時代を超えて、すべての失望落胆した人々に向けられたものです。
聖書箇所
【新共同訳】
イザヤ書
40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。
40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。
40:29 疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
40:31 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない
神を非難する人々
この箇所は、バビロン捕囚の苦しみを背景にしていると言われます。
神の民として選ばれたヤコブ、イスラエルが神に対してぶつぶつ文句を言い、神のなさり方に対して強い調子で非難の言葉をぶっつけています。
わたしの人生は神から見放され、見捨てられてしまった!
わたしの訴えと叫びを神は見過ごされ、全く顧みてもらえない!
「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。 」 27節
27節の「断言する」という語は、強い調子で「言う、宣告する、約束する、断言する」ことです。民数記12:1では姉のミリアムがモーセを「非難した」という意味で使われています。
彼らを取り巻く厳しい状況に対して、熱心に神に助けを求めてきた。それなのに、神はその正当な訴えを全く無視し、顧みてくれないではないか。
失望落胆した彼らは、すっかり意気消沈し、疲れ果て、神を見失っていました。
紀元前586年、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、ユダヤ人の一部はバビロン捕囚へと連れていかれました。彼らはすぐに、解放の時が訪れると期待して神の介入を待ち望んでいました。しかし、捕囚の環境が長く続くうちに、神の到来を信じることに疲れ果ててしまった彼らのうち、多くの者が信仰を失ってしまったと言われます。
測定不能
意気消沈している人たちに神が語りかけます。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。 」 28節
わたしの偉大さに目を向けなさい!
わたしは永遠なる者である。わたしは時を支配し、あなたの人生を支配している。
わたしは創造者である。わたしはあなたの住むこの世界、そのすべてを創造し、維持している。
あなたは、わたしの采配についていろいろと文句を言っているが、あなたのそのちっぽけな頭で、わたしの計画をはじめから終わりまで見通すことができるのか。
わたしの道ははるかに高く、わたしの英知と采配はあなたの理解を超えている。
それは、あまりにも深淵であり、あなたの理性では測定不能である。
力の交換
神はさらに語りかけます。
疲れ果てているあなたに、わたしは新しい力を与えよう。
人間の力や若さはあてにならない。
わたしを信じ、待ち望む者は新しい力を受けて、鷲のように高くのぼっていくことができるのだ。
その力は無尽蔵であり、どんなに走っても疲れ果ててしまうことはない。
40:29 疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
40:31 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない
- 30節では「若者」「若い男」と若さが強調されています。若い頃の記憶力、体力に期待しているのでしょうか。しかし、そんな若い人でも、やがて疲れ果てて倒れてしまう。そこに人間の力の限界が示されています。
- 神が供給する力、それは尽きることのない泉のように湧き上がってきます。
- 31節に「新たな力を得る」とありますが、「新しい力に交換する」という意味の語が使われています。鷲は数年に一度羽根を交換するので、若さと力の象徴と考えられていました。
人間の力や若さには限界があります。
生来の力に依存した自力本願、自力救済には、限界があります。
そこで、他力本願への大転換です。
主を待望する者の未来
主に信頼し、その救いを待ち望む者に対して、神は新しい力を注いでくださいます。
人間の若さや活力はやがて尽きていきます。
しかし、信仰によって無尽蔵の力にパイプをつなぐ者は、困難な時期を乗り越えていくことができます。
信仰には試みというものが存在します。
第一次捕囚から、解放の時が訪れるまで実に66年。神の民は神の試験の中でも最も難しいテスト、すなわち「時と忍耐のテスト」を受けさせられました。
それは、辛い経験でした。しかし、彼らが新しく神のわざを担っていくためには必要な学科だったのでしょう。
あきらめないて主を待ち望んだ人たちを通して、神が新しいことを創造しようとしておられました。
神は彼らを決して見捨てられたわけではありません。彼らの叫びと訴えを神は見過ごされたわけではありません。
新しいこと、それはすでに芽吹き、動き出しています。
主を待ち望んだ者を通して、荒野に道を敷き、砂漠に大河を流すような不思議な働きが始まろうとしていました。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。 イザヤ書43:19 新共同訳