黙想とはいったい何なんでしょうか。
なぜ、黙想こそが繁栄と勝利をもたらすと聖書は教えるのでしょうか。
ヨシュアは敵との戦いを前にして恐れていました。
そんな彼に対して、神は勝利し、繁栄するために必要なことを示しました。
それは、聖書を手元において昼も夜も黙想しなさいということです。
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。ヨシュア記1:8 新共同訳
今回は、黙想するとはどういうことか、ヘブライ語から、このテーマについて掘り下げていきます。
知性の活発な働き הָגָה(ハーガー)
黙想や宗教と聞くと「反知性」の印象を受けるかもしれません。
しかし、黙想するとは、逆に自分の知性をフルに活用して、思考を深めていくことです。
聖書の言葉が今の自分の状況に、この時代にどんな意味があるのかを熟考し、いろいろと思い巡らすのです。
黙想する(MEDITATE)と訳される語に הָגָה(ハーガー) があります。詩編1:2やヨシュア記1:8などで用いられています。
これらの箇所では、「聖書を黙想しなさい。そうすれば、あなたの人生は神の祝福を受けて成功し、繁栄する」と教えています。
「 הָגָה(ハーガー) 」は、新共同訳では「口ずさむ」と訳されています。
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。詩編1:2-3 新共同訳
この語 「 הָגָה(ハーガー) 」 はライオンやハト、苦しむ者などが「うめく、うなる、つぶやく」などの意味で使われています。
また、悪者が「(悪知恵を)働かせる、(陰謀などを)たくらむ」といった意味があります。
詩編1:2では、聖書の言葉を自分の人生に当てはめて、「熟考する、思い巡らす」という意味で用いられています。
主の教えを愛する詩人は聖書の黙想に夢中になっています。
その言葉が今の自分にどのような意味があるのか、神が今の自分に何を願っているのかをあれこれと考えているのです。
そのような深い黙想の中から、神の語りかけがその人の良心を通して響いてきます。
悪者が、悪い目的のために陰謀を企てる時には、その悪知恵をフルに働かせるでしょう。
しかし、詩人は良い目的のために、すなわち、聖書に示された神の意志を行うためにその知性と洞察力をフルに働かせて
神の知恵を悟り、神のアドバイスを得ようとしています。
そのように、黙想とは「知性をフルに活用して、真理や神の意志を悟ろうとする活動」なのです。
仏教や禅宗の瞑想とは違って、聖書の瞑想の場合は自らの知性の働き、理解力をフルに活用することが必要となります。
他の聖書翻訳と比較したり、原語を調べたり、他の関連する聖書箇所を調べたりといった知的活動も有益です。
神の言葉に関する材料が多くなればなるほど、その黙想は深くなっていくからです。
しかし、詩人は決して自分の悟りや知性に頼っているのではありません。
自分の知性をフルに活用するということと、自分の知性に依存するということとは、全く違います。
神の言葉を理解するためには、最終的には神の霊の助けが必要となってきます。
詩編の中で、正しい人とは、神に信頼する人のことです。
聖書を理解するための知恵を与えて神の意志を悟らせ、それを行わせてくださると、詩人は静かに神を信頼しています。
神の言葉を繰り返す שִׂיחַ(スィーァハ)
黙想するとは、その言葉を心の中で繰り返すことです。
黙想する(MEDITATE)と訳される語に שִׂיחַ(スィーァハ) があります。
この語の基本的な意味はある事柄を「繰り返す」です。
その言葉が今の自分にとってどのような意味があるのか、今の自分に何を語りかけてくるのかを「繰り返し」考えていく。
その言葉が必ず実現していくという信仰と確信を育てるために、「繰り返し」自分に言い聞かせていく。
それが外に向かうと、「歌う、つぶやく、話す」などという意味になります。
この語が多く用いられているのは、神の言葉について歌っている詩編119編です。
ここでは、 שִׂיחַ(スィーァハ) が「心を砕く」と訳されています。
地位ある人々が座に就き、わたしのことを謀っていても、あなたの僕はあなたの掟にのみ心を砕いていますように。
詩編119:23 新共同訳
地位のある権力者たちが集まってこの詩人を陥れて殺そうと陰謀を企んでいます。しかし、この人は神の掟についてあれこれと考えながら、どう対処すればいいのか、神の知恵をいただいてそれに対抗しようとしているのです。
悪しき知恵対神の知恵の戦い、その構図は聖書に度々出てくる主題です。
神の言葉に対する熟考を「繰り返す」のは、なぜでしょうか。
それは、その言葉を実際に体験し、自分のものにするためです。
聖書を単に聞くあるいは、読むだけでは、右から左に通りすぎてしまって、何も残らないでしょう。
聖書の言葉が、その人生に何の救いも与えないならば、聖書を読む意味がありません。
神の言葉をじっくりと思い巡らし、何度も言葉に出して「繰り返していく」ことによって、その心のうちに神の言葉をとどまらせることができるのです。
神の言葉があなたのうちにとどまり、神の言葉への確信に立って祈っていく時に、あなたの祈りは何でもかなえられるようになるでしょう。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ヨハネによる福音書15:7 新改訳聖書